ホーム  >  教専寺のお話

教専寺のお話

将軍の風呂桶

風呂桶 桶蓋 桶の記録
「公方様御碇泊諸事控」(元治元年二月、智芳筆)

徳川家茂が教専寺に滞在した時の様子を記している。文久四年・元治元年(一八六四年)正月六日七つ時(午後四時)頃に、翔鶴丸は由良浦で碇泊、家茂は上陸して教専寺で休息し、夕方翔鶴丸に戻った。翌日住職(教専寺第十五代住職釋智芳(永原智芳、天保三年・一八三二年生まれ、当時三十二歳。一九一四年往生)は、見送りに出たものの、なかなか出帆しないため一時寺に戻っていた。「興国寺に参詣」と叫ぶ者がいたので浜へ出たが(その者は本陣を本寺と聞き間違えていた)、「本陣へ」と伝えられ寺に戻った。朝五つ時(午前八時)頃に家茂が訪れて休息し、入浴した。六つ時(午後六時)頃まで滞在して船に戻り、八日五つ時頃に出帆した。滞在中、家茂は寺の開闢などを住職に尋ねている。翔鶴丸へ戻る際、浜辺の群衆を見て家茂が、「彼者は何人そ」と尋ねると、御側衆が「彼者は彼方様を拝みに出候者也」と答えたので、「網代より廻りてやりたいのにな」と述べたという。

(解説)

風呂桶の記事に追加

和歌山市立博物館展示の「古文書」から

古文書

写真の説明

上、歴代住職は和歌山藩藩主と直接に話すことを許されたことを記した文。

左下、寺社奉行に願い出た文の控え。

右下、家茂公が来られたことを、その一月後に第一五代住職の永原智芳が記録した文。

「乍恐奉願上候口上」(恐れながらお上に願い奉り口上に候)

慶応元年(一八六五)十月教専寺が紀州藩寺社奉行へ差し出した書状の写し。

家茂が滞在し、今後も将軍が滞在する可能性もあることから、寺格の昇格を願っている。

今後、歴代住職は、和歌山藩の藩主と話を直接のできることを認められた。

十五代住職

十五代住職 永原智芳

喚鐘

阿戸教専寺に半鐘がある
喚鐘

また、この鐘には次の話もある。

「形見の片袖」

これは、今から二百五、六十年も昔のこと。由良の横浜に北野善九郎という人があった。雑貨類のあきないをして、かなり繁昌していた。善九郎夫婦の間にみさ子とよぶ一人娘があった。一人娘のことで大事に育ててきたが、十九の時、ふとしたことから病におかされ、手厚い介抱のかいもなく、九月十二日病死した。四十九日の法要の日である。見知らぬ旅の六部がきて「娘さんのことで、主人に逢いたい」という。善九郎は不思議に思って客間へ通すと、次のようなことを語った。

「私が熊野参詣の途中、ある夕方、宿をさがした。いつも歩きなれた道であるのに、その日に限り、行けども行けども宿が見当たらずとうとう道に迷ってしまった。やっとのことで行く手に灯りが見えた。やれやれと其処へたどりつくと、荒れはてた小さな小屋があった。一夜の宿をお願いしたいと声をかけて入ろうとしたが、不思議なことに入り口が見当たらない。ぐるぐる家の周囲を廻っているうちにハッと思った瞬間ふかい穴の中へおちこんだ。身体の痛みに気がついたときは土間のような所に寝ていて、その枕もとに、やせ衰えた青白い顔をした十八、九の娘が、しょんぼりと坐って私の方をみていた。私は驚きと恐ろしさに思わず逃げ出そうしたが、どうしたことか身体の自由がきかなかった。只、南無阿弥陀仏とお念仏を唱えていた。すると、今まで無言であった枕もとの娘が、あなたに、お願いがあって此処まで来ていただきました。と細い声でいうので、私は、ここは一体どこであろうかと尋ねると、ここは、土の下の世界で亡者の住んでいる所です。と答えた。娘は、衰えた体に似ぬ細いが底力のある声で、私は餓鬼道へおちた者ですが、やっとここまで逃げてきました。どうかお助け下さいと訴えた。そこで、それにはどうしたらよいかと聞くと、女は青白い顔にさみしい笑いをうかべ、ありがたいことです。私は、紀州の国の日高郡由良の荘の北野善九郎という者の娘です。ここをのがれるためには近くの三ヶ寺へこれぞという物を寄進して、ねんごろに仏事を営んで貰えばよい。熊野参りの途中を御無理なお願いであるが、引き返して父の善九郎に左様にお伝えいただきたい。しかし、こんな話をしても、もしや疑いがあってはならぬから、この片袖を証拠にとどけてほしい。由良へついたころは恐らく四十九日の法要の最中かと思います。といい終わらぬうちに娘の姿は消え、土間と思ったところは小屋の側であった。そして不思議にも娘さんから手渡された片袖が、わが手にあった。それにしても、娘さんの言葉にたがわず、お訪ねしてみると四十九日の法要の最中であるとは、全く奇しきことというほかはない。」

と、長い物語りを終え、風呂敷の中から一枚の片袖をとり出した。始終を側で聞いていた母親も大いに驚いた。いかにも見覚えのある縞柄にちがいなかった。急いで娘の箪笥の着物を調べると、一枚の着物の片袖がいつの間にかなく、合わしてみると六部が持ってきたものとぴったり合った。両親の驚きはいうまでもない。厚く旅の六部に礼を述べ、相談の上ちかくの三ヶ寺へ半鐘を寄進することになった。元禄丁丑十二年八月二十八日、御坊前北町金屋治左衛門が鋳造した鐘は、それぞれ三ヶ寺に奉納され、ねんごろな供養が営まれた。

この三ヶ寺の半鐘のうち、阿戸、教専寺のものが今ものこっている。

(由良町の文化財 第二号 五十九ページ  昭和五十年三月発行 由良町教育委員会)を一部

改訂 註(永原智行がつける)

高札

高札
「江南山天徳院教専寺」の高札に

浄土真宗のこのお寺は、永正十一年(一五一四)若太夫=西願が開基したといわれています。

文久四年(一八六四)正月六日~七日 十四代将軍徳川家茂(いえもち)公の乗る軍艦翔鶴(しょうかく)丸が大阪城へ向う際、由良港へ碇泊し、当寺で休息入浴された際に使った風呂桶を保存しています。

境内の手洗石は、町内では最も古く、元禄元年(一六八八)のものです。

半鐘は元禄十二年(一六九九)のもので、「形見の片袖」にまつわる伝説があり、その供養に鋳造、寄進されたといわれています。昭和五十八年三月 由良町教育委員会とあります。将軍と一緒に、「勝海舟」が来たことを、この文に加えて皆さんに紹介します。

教専寺の高札 解説

永正十一年は、西暦一五一四年で、関東で八月に 宇都宮で戦乱がありました。戦国時代まったっだ中です。ちょうど、同じ八月八日に葦浦若太夫(あしうらのわかだゆう)という、教専寺住職、永原の初代が得度(とくど)してお坊さんになりました。

永原と葦浦という名前。

永原という姓は、由良には一軒もありません。阿戸には「永い原っぱ」もありません。和歌山県にもほとんどありません。

口伝によると、永原は、近江の国(滋賀県)から来たとのことです。滋賀県に永原は、「湖北」に永原駅があり、永原小学校があり、「永原さんが住職をしているお寺があります。

また、「湖東」の野洲市に六角氏の武将であった永原氏があって、永原城がありました。現在も永原という地名もあります。さらに、永原さんが住職をしているお寺があります。

草津市には、葦浦観音寺(あしうらかんのんじ)という古刹があります。さて、永原と葦浦との関係はいかに? もしかして、葦浦若太夫さんは、湖東から由良に来たのかな?

将軍家茂公と勝海舟

徳川家茂(とくがわいえもち)は、江戸城から大坂(大阪)城に蒸気船を使って、何度も往復しました。網代には、和歌山藩の別荘があり、家茂は将軍になる前は、和歌山藩の殿さまでした。由良に漢方医のいたことは知っていました。家茂は、将軍になってから、勝海舟を重用しました。家茂が、江戸から参与会議に出席するために、翔鶴丸(しょうかくまる)に乗って上洛しました。翔鶴丸は、一八五七年にアメリカでヤンチーという名で建造され、イギリスを経て、由良に来る前年に、江戸幕府が購入しました。翔鶴丸を、アメリカに咸臨丸でいった勝海舟が指揮をして、品川を文久三年十二月二十七日(一八六四年二月五日)に幕府と諸藩連合艦隊の旗艦となって出発しました。暴風雨を突破して大坂への航海に成功している。教専寺には、翌年の一月七日(文久四年から元治元年に改元)に串本の大島を経て到着しました。教専寺住職の智芳は漢方医であったため、将軍が教専寺本堂で、現在でも高価な朝鮮ニンジンの入ったお風呂に入られました。翔鶴丸は、戊辰戦争では幕府の主力艦として榎本武揚(えのもと たけあき)の指揮のもと戦い、その後明治政府の海軍艦艇の第2号艦艇となりましたが、一八六八年に伊豆沖で沈没しました。 「走る金屏風」 家茂公が来られたとき、将軍をお迎えするのに、教専寺には金屏風がなかった。興国寺から金屏風を借りて準備していると、将軍は突然「源氏の実朝公をまつる興国寺に参る」といわれた。これを聞いて、「興国寺に金屏風がない」と慌てた村の衆は、若者を一人選んで、教専寺にある金屏風を担いで将軍が興国寺に着くまでに一目散に走らせた。将軍は、途中で気が変わり、「教専寺に帰る」と。将軍よりも速く元の通りに、金屏風は走って、間に合いました。 教専寺の高札 解説ⅱ 手洗(手水 ちょうず)石 教専寺の手洗い(手水 ちょうず)石は、元禄元年(一六八八)で、井原西鶴が『日本永代蔵』をあらわした頃で、柳沢吉保が五代将軍徳川綱吉の側用人になった年です。 手水は、参詣者が手や口を漱ぎ清めます。柄杓(ひしゃく)を使用します。柄杓にすくった一杯分の手水(ちょうず)を使い、一連の所作を行います。神社と全く同じ作法です。 形見の片袖 昔。由良の横浜に北野善九郎にみさ子という一人娘がいた。十九の時に病死した。四十九日の法要の日に見知らぬ旅の六部がきて「娘さんのことで、主人に逢いたい」という。善九郎は不思議に思って客間へ通すと次のような話をした。 「旅先でふかい穴の中へおちるとその枕もとに、やせ衰えた青白い顔をした十八、九の娘が、しょんぼりと坐って私の方をみていた。娘が、あなたにお願いがありますと細い声でいう。私は餓鬼道へおちた者ですが、やっとここまで逃げてきました。私は、紀州の国の由良の荘の北野善九郎という者の娘です。餓鬼道をのがれるためには近くの三ヶ寺へこれぞという物を寄進して、ねんごろに仏事を営んでほしい。父の善九郎にお伝えいただきたい。しかし、こんな話をしても、もしや疑いがあってはならぬから、この片袖を証拠にとどけてほしい。由良へついたころは恐らく四十九日の法要のころかと思います。といい終わらぬうちに娘の姿は消えた。そして不思議にも娘さんから手渡された片袖が、わが手にあった。」と、長い物語を終え、風呂敷の中から一枚の片袖をとり出した。始終を側で聞いていた母親も大いに驚いた。見覚えのある娘の縞柄で、六部が持ってきたものとぴったりと合った。元禄十二(一六九九)年八月二十八日、御坊前北町 金屋 治左右衛門が鋳造した鐘は、それぞれ三ヶ寺に奉納され、ねんごろに供養が営まれた。その時の半鐘が教専寺に今ものこっている。本願寺も元禄元年に初めて半鐘を導入しました。

先の本堂は、元禄十二年(一六九九)より着工し、元禄十五年(一七〇二)九月に完成した。十二世速成の時、文化四年(一八〇七)一月十六日に現在の本堂が建立している。「文化四年正月十六日 本堂建立 教専寺第十二世住持 釋速成 生鑑二十六歳」という棟札が、平成十六年十一月二十九日に修復中発見された。その後に将軍が文久四年(一八六四)正月六日~七日に来ました。

梵鐘(ぼんしょう)

梵鐘

Q. 梵鐘はいつつくの?

A. 法要が始まる前に「一〇打」つきます。

Q. どんな法要?

A. 春・秋の彼岸法要、報恩講です。

Q 「一〇打」のつき方は?

A. ゆっくりと八ツうって、最後の二打は少し間隔を詰めてつきます。

Q ほかには?

A ①今はもう打たないけど、お葬式のときの「出棺」のときに、「三打」うちました。

②「除夜会」のときです。

Q. 「除夜の鐘」ですね。

A. 一年間の念仏生活を反省し、「一〇八打」心穏やかに、音の余韻を愉しんでつきます。

除夜の鐘をつくときは、まず、本堂の阿弥陀さまにご挨拶してからつきましょう。

教専寺の梵鐘の歴史

今の梵鐘は、「昭和十八年東亜戦役に徴発せらる」とあります。

第二次世界大戦の戦況の悪化のために、金属が不足となりました。それを補うために、金属類回収令(きんぞくるいかいしゅうれい、昭和十八年八月十二日勅令第六六七号)がだされ、梵鐘を供出しました。日本の九割の鐘がなくなりました。

教専寺の真鍮の仏具の多くが、「昭和二十六年四月」です。梵鐘以外も多く供出したものと推測できます。

今の梵鐘の復興

昭和二十六年三月に再鋳しました。

教専寺の門徒は、いち早く梵鐘を再建しました。願主は教専寺檀家、永原智昭(君子)です。

今の鐘楼(しょうろう 鐘つき堂)

今の鐘楼は、第十七代住職、永原智願(永原君子の夫、昭和十一年往生)のときに、今本堂修復の寄付金の掲示板があるところにあったのを、現代の地に、みんなに梵鐘の音が聞こえるように移転しました。

永原智願夫婦は、梵鐘に関わってきたことです。

鐘に、八代住職の和歌が刻まれています。

朝夕の鐘のひびきにさそはれて

南無阿弥陀仏をとなへみな人

第八世 聞哲

太鼓

太鼓

現在の太鼓

昔の太鼓

← 古くなり、新しい太鼓を製作した際に、製造業者により革を外したところ太鼓の内側に製造年月の記録を発見。
捨てずに保存することになりまいた。

昔の太鼓

沙羅(さわり)

沙羅

大鏧(だいきん)

大鏧

教専寺の立て札

教専寺の立て札

本堂内陣の前卓に、「永代経」「戦没者」、「諸上善人倶会一処」の立て札をあげている。

「永代経」 春季彼岸会のとき。「永代経」は、門信徒の方々によるご懇念によって、護持され、お念仏のみ教えが永代に受け継がれていく法要です。 名簿は、浜側の余間に置いてあります。

「戦没者」 戦後50年から、秋季彼岸会のとき。浜側の余間に掛け軸を懸けてお参りします。

「諸上善人倶會(会)一處(処)」

阿弥陀経の御文です。

念仏に生きる人は、この世の命が終わるとただちに浄土に生れるとし、共に同じ浄土に生まれたいと思う心持ちを表したものであるし、また同じ浄土へ往生させていただくことを喜ぶ姿でもある。永原智行家の墓碑はこれです。

お斎のとき(両彼岸会、報恩講の晨朝・おあさじ)にこの立て札をだしています。裏には大正期?に、六月を除く毎月一五日(親鸞聖人のお逮夜)と、両彼岸会の中日にお斎が記録されています。報恩講は総参りでしょう)

教専寺 和歌山県日高郡由良町阿戸244番地
交通アクセス
法的遵守
Copyright 2018 kyosenji.jp All rights reserved.